2021.01.28

昨日ひさしぶりに「変わってる」と言われた。正しくは「個性的ですね」だったけどまぁ変な人だなと思われていたということだ。初対面から3回目で。「変わってるってよく言われませんか?」の返答に困って、へらへらしてしまった。別に嫌だったわけじゃない。昔はどちらかというと嬉しかった言葉を無条件に嬉しく感じられなかったのと、32歳の今どう受け止めるべきかわからなかったのと、何て答えればいいか全くわからないことに困惑してしまった。

考えてみたら、①人と知り合うこと自体がひさしぶり ②よく知らない相手に変わってますねと言えちゃう無邪気さを持った(若い)人と会うことがひさしぶり だから、ひさしぶりに言われて対応に困っただけなのかもしれない。

それはそれとして、「変わってる」と言われることにはっきりと違和感がある。たしかに同年代女性の一般的な言動とは異なるのかもしれないけれど、自分としてはけっこうちゃんとしてると自認しているのだと思う。「変わってる」という言葉の奥にあるのが良い評価なのか悪い評価なのかはわからないし、おそらく他意はないのだと思う(若い子が何の気なしに言っただけ)。

率直に「おまえがこれまで知り合ってきた人にはいなかったタイプというだけだろ、つるんでる人らのバリエーションが狭いだけだろ、ケッ」ってハナシなのだが、しかしなぜわたしは自分の側を優位に置いているのだろう?やばい。とにかく「変わってる」と言われたことが全然嬉しくなかった。昔は嬉しかったのに。なぜでしょう。

今後のために返答パターンを用意するとしたら、いったい何がベストなんだろう。

Q.変わってるってよく言われませんか? 

A.

パターン1.はい、言われます。

→変形ver.「そうみたいですね」がいいかもしれない。適当にごまかせるし話が展開しない。しかしこの返答でさえも「変わってる」評を加速させてしまう可能性がある。

パターン2.いいえ、言われません

→変形ver.「似たような友人が多い(だから言われない)」が昨日とっさに出たやつ。これも言い方を整えればけっこう良いかもしれない。

 

あー考えるのが面倒くさくなってきた。とにかく「変わってる」と言われることが嫌だということがわかった。しかし同じ職場の人から「面白いね」と言われるのは全然嫌じゃないのはなぜだろう。それなりに人となりを知られているという信頼感があるからなのだろうか。いや、「変わってる」と「面白い」の言葉の違いだきっと。

「変わってる」は、「普通ではない」と言われている感じがして腹が立つ(ジャッジされてる感)。個人的なただの感想が他者であるこちらにまでぐいぐい侵食してくる感じがして嫌なのだ。つまり状態を断定される筋合いは無ぇ!という嫌悪感。

「面白い」は、嫌味ではないかぎり好意的な要素が大きいと思うしジャッジというよりはただの感想として受け取れる。個人的なただの感想を個人的なただの感想として伝えられるだけだから不用意に侵食される感じがない。

(世にも奇妙なクソ記事を見つけてしまったのでついでに添付しておく)

kore-goodnews.jp

 

いわゆる一般的なところから外れているということが嫌なのではなくて、他人に対して「変わってる」と思ってそのまま口に出すセンスの無さに対する嫌悪感(モラルの無さでもあるけどそこに対する嫌悪感はあんまりない)と、好意的な意味なのか否かの分からなさも嫌なのだと思う。あーめんどくせ。

2020/04/27

午前中 ずっと滞納してたクレジットの支払いに駅前のATMへ行く。2件ハシゴ。

駅前は不思議な雰囲気で、こぢんまりとした飲食店がいつの間にか現れては消え、消えては現れる。

いまの家に住んでもう7年くらい経つけれど、近所について知ってることがあまりにも少なく馴染みが薄い。

南口にあるマンションの2階の窓にけっこうな数のバイオリンが吊るされている様子が見える。民家なのか何らかのお店なのかまったくわからない。近々また見に行ってみよう。つぎはもうちょっと近くまで寄って見てみよう。

1000円カット店を覗くと先客が2〜3名程度。もう二週間前からずっと髪を切りたくて仕方なかったのにいざそれが叶う瞬間になった途端に気が乗らない。髪に限らず、映画、本、何に対してもよくあることだ。

あれこれ自分のなかで断念する理由をつけて撤退。西友で不要不急ではない買い物をして帰宅。

2〜3日に一度自宅の半径300mをうろつく程度だけど出かけるたびに発見があり、そしてすぐ忘れる。

 

結局また何もする気になれず何もしないまま(せめてもの気持ちでけみおの本を瞬息で読む。とびらタイトル「ウチら棺桶まで永遠のランウェイ」と幼少期の写真、泣く。まぶしい写真とポジティブパンチラインの数々、泣く。目次の章タイトル、泣く。)夜。

すてきなチームのグループ通話に初参加。

皆さん聡明。どう立ち回るか、意義のある話を、とか余計なことばかり考えてしまう自分がダサい。自分の人間性の脆弱さを確認。へこむ。当たり前のようにすてきな人たちと触れて生きていかなければと思い出す。

毎日なんにもしてないくせに「わたしは勉強をするのだからそれ以外の時間がない」という激ダサマインドが根付いてしまってて究極的にダサい。キャパが小さい人間だということをこれからもしっかり自覚しなければならない。もうずっと空想だけで生きているようなものだ。ダサい。

頭が良いことへの憧れと執着とコンプレックス。

足るを知りながら向上して生きていきたい。

他者との接触は間違いなく刺激になる。だから、自己研鑚を望むなら必ず人との対話を続けなければならない。

 

明日は午前中にzoomモーニングの約束をしている。その前にシャワーして軽く化粧してコーヒーとパンを用意する。モーニング後はケトルとスピーカーを受け取りに吉祥寺ヨドバシに行こう。暮らしをひとつひとつ自分で作り出す能力が圧倒的に足りない。

目を潰したくなるほど自分の弱点に直面させられる毎日。

 

緊急事態宣言(保育園休園)からの20日間は浪費していると評せざるを得ない時間を過ごしている。さいあくだ。

さいあくといえば、きょう読んだフワちゃん連載の「あたしチコリータなのに!サイアクゥ!」が最高だった。フワちゃんといい、けみおといい、まじで光。世の中にはきっとわたしがまだ知らない光で溢れている、そう思うと絶望ごっこをしている場合じゃない。

前にも何かのタイミングで思ったけど、年を重ねるにつれて感銘を受けることが減っていく。そういうものに出会ってないわけではなくてこれまでの自分の価値観ひっくり返るほど感銘を受けられる余白と体力が減ってきているのだと思う。やっぱり人間の容量は決まってるから不要なデータはゴミ箱に捨てるとかして日常的にストレージ整理して空き容量を確保しておかなければソフトウェアアップデートアナウンスの「再通知する」を選び続けながら結局古いバージョンのまま生きていくうちに朽ちて死ぬ。

 

容量とかアップデートとかバージョンとか、パソコン用語の概念で例えるとめちゃくちゃしっくりすることがほんとうに多い。人間とパソコンの共通点の多さについてとっくにみんな気づいてるのかな。気づくの遅いのわたしだけ? 

明日からもできるだけ日記を書こう。

2020.04.16

コロナに翻弄されている。怒りに支配されている。しかし、実のところは依存しているとも言えるとおもう。

ついに首相官邸ご意見募集フォームに意見を送った。なにもしてないけど、なにかをしたような、しかしやっぱりなにもしていないんだろうという虚しさがある。備忘録として送った内容を残す。

 

連日のご勤務、各所へのご対応、ほんとうにおつかれさまです。

こちらのフォームからはすでにたくさんの意見が集まっておられるかと存じます。当方意見もそれらと重複した内容になるかと存じますが、僭越ながら送らせていただきます。

明日から例の布マスク配布開始のニュースを見ました。もし本当に財源が限られているのならば、なぜ、より有用なお金の使い方をご検討されないのでしょうか。貴重な466億円を「一世帯あたりに2枚のマスク配布」に費やすことで得られる利益は、国民の最大公約数の利益になり得るとお考えなのでしょうか。

政治家とは国内有数の賢明な方々であるという認識は間違いだったのでしょうか。

小市民の意見に耳を貸さず、自身の見地の不完全さを考慮せず、向上心を持たず、富裕層として狭い社会で培った知見と想像力の及ぶ範囲内で、自身の損得を基準に政策を決定して国を統率することが賢い政治家の正しい在り方なのでしょうか。

 他国の状況を観察した上で適切な対応策を検討する時間がそれなりにあったはずなのに、取るに足らない策ばかりの現状がほんとうに不思議でなりません。

 

・医療現場の環境改善、従事者の安全確保

・国民への一定期間の現金給付(世帯単位ではなく、人単位で)

PCR検査の増強

これらは今の政府にとって実現不可能なほど困難なことなのでしょうか。現場の声を聞き、各専門家の意見を聞き、適切な策を施していただくことを望みます。

 

一市民として医療に従事する方のこちらの文章をお読みいただきたく存じます。

https://note.com/yo_tsu_ya_3/n/na4fb2c05ff55

 

ご自身のご家族や大切な人が不用意な政策によって亡くなられることを想像してください。最小限の想像力さえあればできるはずです。国民の生命保護を最優先基準としてお考えいただくことは、そんなに難しいことなのでしょうか。 

社会的立場によって生命の優劣が決せられているとしか思えません。いつの間にか優劣思想が蔓延している今の世の中が悲しくて虚しいです。なによりも憤りを感じています。こんな国は最低です。恥ずかしいです。日本人をやめたいです。

 

国家公務員の皆さまの中にも、ほんとうに大変な思いをされている方がたくさん居られると思います。

どれだけ声を集めてたとしても、国民は弱いです。それは政治家の皆さまが一番よく知っているのではないでしょうか。国民一人一人の苦しい生活や厳しい環境を改善を望むときに頼れるのはあなた方だけなのです。

どうか、よろしくお願いいたします。

2020/02/06

太田光『違和感』を読んでいて、太田が好きで日芸を受験することに決めたことを思い出した。それくらいに太田の文章が刺さりまくって太田愛が再燃している中で今日またひとつ敬愛が深まった。以下備忘。

今週の爆笑問題カーボーイで太田が安倍さんの「募ってるけど募集はしてない」発言についての「安倍さんの言う“募集”は公募というニュアンスだったんじゃないか」と。重くもなく軽くもない絶妙な音程で。フォローや擁護という大袈裟な熱弁では決してなく、あまりにも自然な発言だった。公に広く募るという意味で、辞書どおりの「募集」を意味して言ったわけじゃないんだろうと太田と同じようなことを思っていたし、批判自体は至極真っ当で正しい指摘ではあるにも関わらず、なんだか揚げ足を取っているようで違和感があった。もちろんわたしはとことん安倍さんが嫌いだし一刻も早く安倍政権終われと毎日願っているけれど、安倍嫌いという結論ありきの感受性(の暴走)には違和感がある。また、そういった人間の感受性の危うさへの認識や自覚なく、あたかも公平中立であるかのごとく自分を信じ切ってしまう思考の温度にも。今回の件は、これは政治云々以前に、人と人とのコミュ二ケーションについての問題だ。人が実際に使う言葉とその真意にはいつも必ず差が存在する。そこの差を互いに補い合うことこそコミュニケーションの根幹のひとつであると思う。コミュニケーション=仲良くする、ではなく「対話」という意味でのコミュニケーションだ。『違和感』のなかに「中立でありたい」という旨の一文があったことを思い出した。結論ありきではなく、ひとつひとつの事象を先入観なくシンプルに考察する努力を怠らないようにしたい。

2019/12/16

ひさしぶりに外に出たらボッコボコに殴られて2ヶ月間の昏睡状態からついに意識を取り戻す。下記備忘録。

バイトの面接に行った。余裕で受かると高を括っていた。外に出てなさすぎて完全に感度が鈍っていた。簡単な筆記試験があるとのことだったが、どうせ一般常識のようなものだろうとノーガードで臨んだのもアホだった。内容は主に芸術文化(映画、写真、美術、演劇、現代アート)や時事問題への関心度を測るようなものだった。様々な固有名詞が羅列されていて、それに対して「知っている/知らない」の二択。好きなもの、当然知ってるもの、なんとなく知っているもの、名前は聞いたことあるもの。どこまでを「知っている」どこからを「知らない」とすべきなのか。「知っている」とは? 「名前は聞いたことあるけどほとんど知らないもの」が多いことを改めて突きつけられて凹む。名前だけ知っているものが多いコンプレックスをここへきて暴かれた気持ちになる。日常会話の中で知ったかぶりばかりしていること、知ったかぶりが上手になってしまっていること、そんな自分によってまんまと知っている気になっちゃってること。いろんなことを知っている自分でありたいくせに、ほんとうに興味を持てるものがとても少ないこと。

好きな飲食店、好きなファッションブランド、好きな雑貨屋、好きな古着屋、好きな文房具とメーカー。生活の豊かさを問われているような気がした。いちいち考えたこともなかったし、どんな答えが望まれているかの検討もつかなかった。その上、好きなものの名前がパッと出てこない。緊張状態の影響もあるのだろうが、好きなものの正確な名前を知らないかもしれないことにハッとした。わたしは、自分の好きなものや知っていることについて、整頓された単語帳を暗唱するようにすらすらと語れる人が嫌いだ。しかし、この職場ではその単語帳を持っていることが当然で、さらにそれを日常的に披露する能力が求められる場なのだろうと察し、辟易した。そんな人達ばかりの場なら受からなくていいやと投げやりになると同時に、自分の好きなものをこれほどに言語化できないことがショックだった。他人に披露するしないは別としても、あらゆる部門のマイフェイバリットコレクション&ディスプレイが皆無であることを暴露された。中でも一番ショックだったのは、ラッカとガザがどの国の都市かという設問。まったく分からなかった。遅くとも中学生の頃から「時事問題は常識ですけど」的なアイデンティティがわたしにはある。当然のように備わっていると思い込んでいた常識の箱を開けてみたら空洞になっていた。ショックだった。建物を出て即検索をした。ラッカはシリア、ガザはパレスチナ。これも来週には忘れてしまいそうで怖い。記憶力の欠如なのか、興味の欠如なのか。記憶の容量が確実にあることを考えると、優先順位の問題なのだろう。とにかく、狭い世界にいる者ほど自分はよく物を知っていると錯覚してしまう(『主戦場』参照)。いろんなことを知っているつもりが、全然何にも知らない自分がとにかくショックだった。思いもよらないところで現在地の答え合わせが出来てよかった。ネット記事流し見での情報収集癖対策をしようと思う。

夜、今月イチの楽しみであるエトセトラブックスvol.2のトークイベントへ。田嶋陽子の笑顔に何度も鼻の奥がツンとした。明るさと知性と柔和さを持った女性になりたい。蔑視や差別について考えるとき、とにかく怒りに支配されてしまうし、自分の人生がそれに覆われてしまうことがこわい。それほど不本意な本末転倒はない。上野千鶴子先生も田嶋陽子先生も、あっけらかんとしている印象。この怒りを手放すことは、知性を放棄すること。問題から目をそらして現代の風潮に加担すること。とはいえ怒りに支配されないほどに知識と経験が成熟していない。自分の大きさを定期的に観察しながら、目指す方向へじわりじわりと自分を伸ばしていきたい。なにはともあれ、笑っていてくれてありがとう田嶋陽子!きょうも素敵なお洋服を召されていた。山内マリコさんがめちゃ小顔でお綺麗だったこと、エトセトラブックスの松尾さんがやっぱりストライクに素敵だったこと。たくさん勇気をもらいます。

2019/11/06

全然勉強ができない。集中力も継続あってこそだ。

まっちゃんに付き合ってもらって『真実』特別編集版&是枝監督ティーチインへ。本物の是枝監督、かわいい。「きゃーかわいいーイウォークみたーい」と呟くまっちゃんに賛同。イウォーク的かわいさ。記憶に不安を覚えたので画像検索してみたら、想像どおり、想像以上にかわいくてちょっと笑う。胴回りが広がっているトレーナーもかわいかった。裾まわりがキュッとしている緑のズボンと赤いスニーカーの組み合わせも相当かわいかった。おしゃれ。ラフとユーモアと真摯さの同居は、ものづくりをしている人の共通点。映画祭での正装姿を見ることが多かったからか、あぁこの人はただの映画監督なんだなぁと親近感を抱く。

終演後にまんぷく食堂でナポリ&ポークカリー、まっちゃんはナポリ&ステーキカリー。真っ黒なカレーの上に肉、そして真っ赤なナポリタン。意外なタイミングで近頃の洋食欲が満たされた。肉が美味いことの喜びって特別。また行きたい。出かけた先に行きたいお店を用意することは人生においてとても重要なことだと再確認。毎日をメモリアルに。

まっちゃんと色々な話をする。まっちゃんと会うといつも言語化することへの怠慢を自覚する。こうして本当の話だけをできる友人を大切にしたい。

帰ってきた駅のホームのベンチにうずくまってる女の子がいた。明らかに体調が悪そう。気になりつつ通り過ぎるも、何か飲み物だけでも渡しておきたいと思ったけど映画前に買ったお茶は3口分くらいしか残ってない。エスカレーターに乗りながら、わざわざ買うのも恩着せがましいし偽善っぽいかなとあれこれ考えたが、改札階に到着してそのまま自販機へ直行。あらゆる迷いを振り切って、もう一度エスカレーターを降りて女の子の元へ。水を渡すまではよかったものの、「ゆっくり休んで」と言葉をかけてそそくさと退散した。なんだよその謎の声かけ……どこまで帰るのか、お酒のせいなのかそうじゃないのか、一人で帰れるかまで確認すべきだった。通り過ぎることもできたけど、水をあげたり帰りを心配しない理由はないし、できない理由もなかった。今後も同じような場面にあったら、もうちょっとちゃんとケアできるようにしたい。

もっと考えてることをもっとちゃんと書き残したいのにタイムスケジュールがうまく組めない。理想とする生活スタイルの確立と形成が早急に必要だ。思い出したらまた書こう。まずは早寝早起きを定着させなければ。

2019/11/02

是枝裕和「こんな雨の日に」を計2日で読了。

『真実』撮影密着ドキュメンタリーで是枝監督の仕事への取り組み方や人との接し方を見て以降、目下心酔中。粛粛と自身の任務(クリエイティブ)を遂行する善良な社会性を持つ制作者が好きだ。彼らの自己の発生的な創作には、社会から求められる仕事への責任が見事に同居している。

 権力ある立場の人間が、

”「立場」以上に説得力のある言葉を吐けないで「権利」を主張するというのは本当にガッカリだ”

”ちっぽけな自尊心は守られるのかもしれないが、その代償として失われるものは計り知れない”

これらは映画の世界だけに言えることではない。「社会人」として洗練された制作者が大好きだ。

 

”中庭の樹が風が吹くたびに葉を散らす”という一文に目が留まる。自分がそこに描かれているのと同じ景色を見たとして、「風が吹くたびに中庭の樹の葉が散る」という描写を選ぶであろうことが簡単に想像できる。もしかしたら”樹が葉を散らす”という「表現として」の樹の能動ではなく、是枝監督には本当にそう見えたのかもしれない。言葉のおもしろさを再確認すると同時に、そういう視点が作り手である彼の世界を立体的(高解像度)にしているのだろうと確信する。

 

ずっと楽しみにしていた「クィア・アイ IN JAPANが昨日からNetflixで配信され、昨晩と今朝で視聴。

素晴らしい。素晴らしすぎる。(素晴らしいものに出会ったとき、語彙力があまりにも空っぽになる)

少なく見積もっても来春まではこれで乗り切れるほどのエネルギーを充電。全4話のうちの半分の主人公がナチュラル且つ衒いなく英語を話せる人物であることに刺激を受ける。やっぱり英語を話せるようになりたい。

 

昨日から勉強を再開することを心に決めたのに、わたしは自分との約束を守れない。今月から来月9月までの第一次勉強生活を豊かに保つためにも、勉強以外のことを充実させていきたい。是枝スタイルでメモ程度の日記をつけていこうと思う。まずは早急に二度目の『真実』を観に行かなくては。