2018.02.23

花粉すぎて風邪?のような毎日。

12月くらいから寝ても寝ても寝てしまう、睡眠の意義を越えてるのではないかとすら思えてしまう睡眠時間。やたらと睡眠時間が長くなるのは鬱の前兆という記事を読んでから少しゾッとした。いまはもう全くそんなことはないけれど、12月1月の睡眠時間はもしかしたらそれだったかもしれない。やりたくないことはするもんじゃねえな!!確信、確認。

 

昨晩きゅうに思い立って「1999」予約。きょうになって行くか行かないか何度かぐらついたけど行った。よかった。さいしょのフラダンスでちょっと泣いた。高校生ですでにあの笑顔を持っていることは間違いなく武器になる。10代の若さゆえの笑顔というよりは女性ならではの嫋やかな、美しいまなざしのような笑顔。あの笑顔を携えて生きる人生はきっとたくましい。フラは慈愛のダンスなのだと知る。

この先なにが起こるかなんて誰にも何もわからないのは彼女たちも私たちも同じはずなのに、どうしてもつまらない上から目線のような言葉ばかり出てきてしまう。彼女たちの若さ不確かさ純粋さを、わたしは消費してはいないだろうか。搾取してはいないだろうか。そんな罪悪感のような気持ちが途中からざらざらと流れこんできた。彼女たちの美しさは決して私なんかに削られない。そんなことは明らかで、それなのに、青春ハラスメントのような妙な後ろめたさ。この正体は何だろう。

1999について思い出してみる。つい先日バイト先の同年代の人たちと飲んだときにも偶然その話になった。当時を席巻した話題も18年過ぎてしまえばただの同年代あるあるという間抜けたものに姿を変えるという結末を、18年前の私はまだ知らない。小学校低学年の目線でしか暮らしてなかったからだろうけど、当時の大人たちもわりと信じてたように記憶してるんだけど、実際どうなんだろう? 今もし同じような終末論があったとしたら、、と考え始めるまでもなく。911や311を通ってきた今に、あるかないか分からない未来の不幸はあまりにも陳腐。ましてや311を小学生で経験した彼女たちにはノストラダムスの威力なんて子供だましもいいところだ。

「1999年7の月」が怖くて怖くて眠れない日が何度もあったことを思い出した。(小学生の「眠れない」は小一時間であっただろうことにも今さら気がつく。)

ある日突然空から豪雨雷鳴とともに大魔王が降りてくる。それからの日常は空一面赤みがかった曇天で、我々地球人は一生奴隷として暮らしていくようなイメージだったと思う。さすがにポップすぎると考え直したり友だちや姉たちから情報を仕入れては人類滅亡像をこねくり回していた。夏休みで室蘭に住む祖父母の家に親戚大集合してたときに「7の月というのは今でいう8月だ」とか「大魔王の正体は富士山噴火」とか大人たちがノストラダムスの話題をしていたことが小学生のわたしにとって人類滅亡を決定づけたをこともはっきりと覚えている。

怖くて眠れない夜はいてもたってもいられず、寝室の神棚にお祈りをしていた。私がしたお祈りというのは、父が毎日神棚に向かってやってることを完コピした動作で、その神棚は父の信仰している宗教のものだった。あの時はまだ宗教という概念も無かったし、父が特定の宗教を信仰していることすら理解してなかった。でもなんか、眠れない夜に神さまにお祈りしてしまうときに限らず、日常生活に時々現れる(こっちが勝手に登場させてる)神さまって本来そういうものだよね?と今夜アゴラからの帰り道に思ったりもした。