2020/02/06

太田光『違和感』を読んでいて、太田が好きで日芸を受験することに決めたことを思い出した。それくらいに太田の文章が刺さりまくって太田愛が再燃している中で今日またひとつ敬愛が深まった。以下備忘。

今週の爆笑問題カーボーイで太田が安倍さんの「募ってるけど募集はしてない」発言についての「安倍さんの言う“募集”は公募というニュアンスだったんじゃないか」と。重くもなく軽くもない絶妙な音程で。フォローや擁護という大袈裟な熱弁では決してなく、あまりにも自然な発言だった。公に広く募るという意味で、辞書どおりの「募集」を意味して言ったわけじゃないんだろうと太田と同じようなことを思っていたし、批判自体は至極真っ当で正しい指摘ではあるにも関わらず、なんだか揚げ足を取っているようで違和感があった。もちろんわたしはとことん安倍さんが嫌いだし一刻も早く安倍政権終われと毎日願っているけれど、安倍嫌いという結論ありきの感受性(の暴走)には違和感がある。また、そういった人間の感受性の危うさへの認識や自覚なく、あたかも公平中立であるかのごとく自分を信じ切ってしまう思考の温度にも。今回の件は、これは政治云々以前に、人と人とのコミュ二ケーションについての問題だ。人が実際に使う言葉とその真意にはいつも必ず差が存在する。そこの差を互いに補い合うことこそコミュニケーションの根幹のひとつであると思う。コミュニケーション=仲良くする、ではなく「対話」という意味でのコミュニケーションだ。『違和感』のなかに「中立でありたい」という旨の一文があったことを思い出した。結論ありきではなく、ひとつひとつの事象を先入観なくシンプルに考察する努力を怠らないようにしたい。