2019/12/16

ひさしぶりに外に出たらボッコボコに殴られて2ヶ月間の昏睡状態からついに意識を取り戻す。下記備忘録。

バイトの面接に行った。余裕で受かると高を括っていた。外に出てなさすぎて完全に感度が鈍っていた。簡単な筆記試験があるとのことだったが、どうせ一般常識のようなものだろうとノーガードで臨んだのもアホだった。内容は主に芸術文化(映画、写真、美術、演劇、現代アート)や時事問題への関心度を測るようなものだった。様々な固有名詞が羅列されていて、それに対して「知っている/知らない」の二択。好きなもの、当然知ってるもの、なんとなく知っているもの、名前は聞いたことあるもの。どこまでを「知っている」どこからを「知らない」とすべきなのか。「知っている」とは? 「名前は聞いたことあるけどほとんど知らないもの」が多いことを改めて突きつけられて凹む。名前だけ知っているものが多いコンプレックスをここへきて暴かれた気持ちになる。日常会話の中で知ったかぶりばかりしていること、知ったかぶりが上手になってしまっていること、そんな自分によってまんまと知っている気になっちゃってること。いろんなことを知っている自分でありたいくせに、ほんとうに興味を持てるものがとても少ないこと。

好きな飲食店、好きなファッションブランド、好きな雑貨屋、好きな古着屋、好きな文房具とメーカー。生活の豊かさを問われているような気がした。いちいち考えたこともなかったし、どんな答えが望まれているかの検討もつかなかった。その上、好きなものの名前がパッと出てこない。緊張状態の影響もあるのだろうが、好きなものの正確な名前を知らないかもしれないことにハッとした。わたしは、自分の好きなものや知っていることについて、整頓された単語帳を暗唱するようにすらすらと語れる人が嫌いだ。しかし、この職場ではその単語帳を持っていることが当然で、さらにそれを日常的に披露する能力が求められる場なのだろうと察し、辟易した。そんな人達ばかりの場なら受からなくていいやと投げやりになると同時に、自分の好きなものをこれほどに言語化できないことがショックだった。他人に披露するしないは別としても、あらゆる部門のマイフェイバリットコレクション&ディスプレイが皆無であることを暴露された。中でも一番ショックだったのは、ラッカとガザがどの国の都市かという設問。まったく分からなかった。遅くとも中学生の頃から「時事問題は常識ですけど」的なアイデンティティがわたしにはある。当然のように備わっていると思い込んでいた常識の箱を開けてみたら空洞になっていた。ショックだった。建物を出て即検索をした。ラッカはシリア、ガザはパレスチナ。これも来週には忘れてしまいそうで怖い。記憶力の欠如なのか、興味の欠如なのか。記憶の容量が確実にあることを考えると、優先順位の問題なのだろう。とにかく、狭い世界にいる者ほど自分はよく物を知っていると錯覚してしまう(『主戦場』参照)。いろんなことを知っているつもりが、全然何にも知らない自分がとにかくショックだった。思いもよらないところで現在地の答え合わせが出来てよかった。ネット記事流し見での情報収集癖対策をしようと思う。

夜、今月イチの楽しみであるエトセトラブックスvol.2のトークイベントへ。田嶋陽子の笑顔に何度も鼻の奥がツンとした。明るさと知性と柔和さを持った女性になりたい。蔑視や差別について考えるとき、とにかく怒りに支配されてしまうし、自分の人生がそれに覆われてしまうことがこわい。それほど不本意な本末転倒はない。上野千鶴子先生も田嶋陽子先生も、あっけらかんとしている印象。この怒りを手放すことは、知性を放棄すること。問題から目をそらして現代の風潮に加担すること。とはいえ怒りに支配されないほどに知識と経験が成熟していない。自分の大きさを定期的に観察しながら、目指す方向へじわりじわりと自分を伸ばしていきたい。なにはともあれ、笑っていてくれてありがとう田嶋陽子!きょうも素敵なお洋服を召されていた。山内マリコさんがめちゃ小顔でお綺麗だったこと、エトセトラブックスの松尾さんがやっぱりストライクに素敵だったこと。たくさん勇気をもらいます。